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デザインとプログラムと、なんだろう

「なんかイヤ」の小さな小さな感情が致命的であると思う

2019.11.04

毎朝立ち寄るコンビニ。
いつものあの人がレジにいる。
「温めは?」とやさしい口調でフレンドリーに聞いてくれるので「お願いします」と答える何気ないやりとりをしながら、
「うちのスタッフがこんな言葉遣いしたら間違いなく怒るだろうな」
と思っている。

わたしよりも敏感に感じるのは中学生の息子。
最近は、別なコンビニにしよう、と言い出した。
これか!と変な立ち位置で見ている私がいる・・・
もしかしたら、あの店員さんの言葉遣いのせいなのではないかと薄々感じる。言葉遣いの乱れは、私にはどうでも良いことだけど、息子の言う「なんかやだ」の心理にはとても興味がある。
「なんで?」
「・・・・なんか」

特に理由を言うまでもなく小さい。時にはその理由さえ忘れてしまい「なんかイヤ」の感情だけが残る・・・ってとこなのかな?

同じコンビニの店長さんは、とても好感度が高い。
口調が丁寧で、ものを渡す時などは腰が10cmくらい下がるようにも見える。全ての人を尊重しているかのように見える。もちろん中学生の子どもにも同じように丁寧。
丁寧な言葉遣いと、相手を思いやる仕草は、やっぱり気持ちが良い。
でも二人が並んでいる時に、思った。
「なぜ注意しないんだ?」

「注意しない」ということに、もやもやする。
これは理由にもならない「なんかイヤ」の感情が私にも。

ちょっとした不快感、いえ「不快感」と言い切れないほどの些細な感情。
これは修復することが難しい。
改めて感じた朝。

あと、敬語は大切。
ちょっとの接点であっても、ご縁があって成り立つ人と人。
相手を思いやる表現として、どんな相手でも尊敬の心で接することができるように、自分にも釘をさす。スタッフにも話そう。

やはり致命的である、と思う「なんかイヤ」の感情。
もし自分の中に生まれたら、きちんと受けとめ、その些細な感情の原因を考える。それが自分自身の立ち居振る舞いに影響させることができると思うから。そうしよう。

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学生の頃、塾の講師をしていて小学校3年生を1か月だけ臨時で担当したことがあった。普段は中学生だったので、子どもの扱いに正直困ったと思ったが、「子供相手のおしゃべり」に苦痛を感じていた。
そして、半ばなげやりに「子ども扱い」をやめてみた。
相手を友達と同じように会話するようにした。
そしたら、あんまり疲れなくなったし、何より生徒の方が懐いて来てくれたことがあった。
思えば、私が勝手に子どもたちを「子供」として評価し、目下に見た話し方をしていただけだった。
もしかしたら、この思い出も同じことだったのかもしれない。